【ぼ】 語り簿

記憶を頼りに語られた、生っぽく、熱を帯びた物語の記録。

第一回 かたりべ四街道
「四街道に帰る」

第一回目の語り部(べ)は大野進さん(71)。四街道で生まれ育って70年、四街道で学び、四街道で暮らし、四街道で料理店を営んでいる生粋の四街道人である。挨拶を終えて、静かに体を揺らしながら大野さんが見つめてきた四街道の記憶をゆっくりと語り始めた。

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僕は、昭和15年6月24日にこの四街道で生まれました。兄弟は7人で、僕は4番目です。当時の家族は5人、6人は当たり前で、9人、11人という大家族の家庭もたくさんありました。そういう時代に生まれ育った僕ですから、大体子供のときと言えば非常に苦しい、悲しい思い出が多いですけれども、その中で友達という絆がとても、今70歳になってもそれを飛び越えて、じーんと印象に残させてくれているものがあるのです。

学校の先生は子どもの将来をしっかりと見ていた。当時の学校は勉強だけではなく、沢山の教えがあった。

僕は昭和21年、僕はうれしくも幸運なことにも、千葉大学の附属幼稚園の第1回の入園生として入園させてもらいました。このことは、今でも誇りに思っています。 昭和21年というとその前の年には東京大空襲があって、戦艦ミズーリ号の上でパーシバルさんや重光さんが無条件降伏の調印をしたころでした。

そしてその入園のとき、園長先生がこうおっしゃいました。一番大切なものは、挨拶ですよ、別れの挨拶、朝の挨拶、これを大事に守りましょうね、こういうことが今でも印象に残っております。だから、今でも、夕べどんなことがあっても、朝起きれば真っ先におはようございますと言うのが僕の習いになっています。これは、幼稚園の先生の教えが尊かったなと思います。

大野さんの用意したメモ

幼稚園のお遊戯の様子。園庭でお面をつけて踊っている。今の時代の姿に通じるものがこの頃にあった。

そういう学校の先生方の教えなどによって、僕たちは1日1日大きくなってきたと思います。僕は今現在は寿司屋をやり、食べるものは何でも満足している現状ですけれども、ふと振り返ってみると、小学校5年生のときの第1日目の給食は、決して忘れることはできません。粉ミルクとコッペパンを腹いっぱい食べた記憶です。今、何といっても忘れ去ることができないのは、あの給食の第1回目の食事での満腹感でした。栄養失調だった僕たちが、いかにあの給食によって健全に生きてこられたかということについて、あの給食に対しては非常に感謝している一人であります。

学校で学んだこと、これは今でも、小学校、幼稚園のときのことであっても忘れません。苦しいときでも悲しいときでも、学校というものはこんなにいいものだ、そしていい先生に出会ったなということは、今でも感謝をしています。小学校1年生のとき通信簿の評価欄に書かれたことは、今でも、70歳になってもその性格は変わりません。小学校の先生というのは、その子の将来まで、性格とか何かをお見通しであの短い評価欄に書いてくれたと思って、今でも感謝しております。悪いところがいっぱいある大野進ですけれども、死ぬちょっと間近までには、直そうと思っています。

大野さんの用意したメモ

大野さんが小学生の時の集合写真。生徒を見守るように先生が後ろに立つ。

世間とのつながりからも多くを学んだ。そのつながりを楽しめた時代。

そういうような四街道でも一番楽しかったことは、僕にはお風呂でした。うちにはお風呂があったのですけれども、たまに銭湯に入るとお年寄りさんがお風呂に入っています。そうすると子供たちが自然と、おじいちゃん背中流しましょうと言って、背中を軽くでも何でも洗ってやる光景、これは何かとても美しい光景だと思っているのです。片や肩を洗ってもらったおじいちゃんは、僕たちに、大人になったらこういうことをするんだぞ、人に迷惑はかけるんじゃねえぞ、親の言うことを聞け、学校の先生の言うことを聞いてれば間違いねえんだぞ、とそのような教えをいただいたことが、子供のときからの、学校に行く前の唯一の教訓だと覚えています。そして年寄りさんたちが言ったことは決して間違っていなかったんだなとつくづく思っております。

鬼畜米英と教えられたアメリカさんはいつもニコニコしていた。

5歳のときに、今の国立病院のところにジープで押しかけてきた、かっこいい背の高いアメリカさんを見てびっくりしたことが忘れられません。子供のときに父親などから教えられたのは、アメリカさんは赤鬼だ、イギリスは何鬼だと、見られたら食べられちゃうぞということでした。ところが、実際に見ると、非常に優しくて、ニコニコしていたアメリカさんでした。「鬼畜米英」というその当時の教えが本当に正しかったのか、その兵隊さんたちの行動によって、子供ながら、5歳のときにわかりました。そして、アメリカさんはチューインガムをよく噛んでいました。ギブ・ミー・ガム、ギブ・ミー・チョコレートと言って、僕は手を出しませんでしたけれども友達などは手を出している光景をよく見ております。

また、あの下志津原の中に、鉄砲弾、大砲を撃った後の鉛弾を拾いにいくことが唯一の現金収入でした。それを拾ってくると、くず屋さんに持っていってお金にかえて何かしらを買う。後に、群馬県の相馬原演習場でアメリカ兵のジラードさんがある女性を大砲で撃って死に至らしめた大事件があったのですけれども、僕たちは子供のときから鉛の弾を拾っていました。鉛よりも高いものは真ちゅうでした。真ちゅうが見つかると、それこそ金を見つけたような喜びを感じたことを、つい昨日のように思います。

駅から松並木を抜けて筑波山が見えた。

そういうことは5歳のときから見ていましたけれども、風景のなかで印象に残ることは、四街道駅から筑波山の嶺からふもとまで、一本松の松並木があったことです。時は終戦後ですか、松ヤニ、松根油(*1参照)を取るために、Y字形で、ちょうどゴムの木のゴム液を取るようなことをされて、全部いじめられたあの松ですけれども、今でもよく何本か残っているなと思います。日光に行く太郎杉のあの街道に匹敵するだけのものが、四街道の財産として残っておるのが現状です。

大野さんの用意したメモ

現在の四街道駅前の様子。この通りの両脇に松並木があり、視線の先には筑波山が見えた。

今から50年前に、ある学校の先生と子供たちが20本の桜の木を植えたそうです。それが今四街道駅から上りの和良比踏切のところに5本残っています。あとの15本は駐輪場のために伐採されてしまいましたが、それでも50年前の子供たちが植えてくれた木がどうにか5本残っている。これは貴重なことを残してくれたんだなぁと感謝しております。

大野さんの用意したメモ

四街道駅から和良比踏切に続く道。駐輪場のために多くの桜の木が伐採されたが、5本残った。

緑多きかつての四街道。空を見上げるとガンが飛んでいった。

四街道には緑や自然がたくさんありました。沼もあり、小さな沼には、よくガンが飛んでいって、途中で降りて水浴びをしていく光景も何度か見ました。子供のときに空を飛んでいくガンに向かって、「ガン、ガン竿になれ、ガン、ガン、竿になれ」と呼びかけると、何とかガンが竿になったような格好をして応えてくれたいい印象が残っています。

かつて演習場があった下志津原の小松山ではたくさんのキノコが生えており、秋になるとキノコ採りに行って、これが何よりのご馳走でした。僕らがアカハラといったあのキノコは一体どこへ行ったのやら。

そして、四街道にはずうっと田んぼがあり、川がありました。和良比の山をずっと行くと泉があって、そこが水源池で清水が湧き出ていて、その小川の前には、セリだとかそういう野草がいっぱい生えていました。そしてその川には、ドジョウ、モクゾウガニ(*2参照)、ウナギ、フナ、特にシャリビタといってきれいな魚がいたのですけれども、きれいなばっかりで身がないのです。僕たちは余り食用にならないもので馬鹿にしていたのですけれども、そのシャリビタが今で言うタナゴで、天然記念物になって貴重な存在になっていることが現実です。あのタナゴが天然記念物になったのか、そういえばきれいだったなということを、ずっと後に新聞で天然記念物になったということを見て思ったことでした。

四街道の水は自慢。井戸を掘った指導者に感謝し、これからも残していきたい。

四街道の1番の自慢は、どこにもないようなおいしい水が湧き出ていることです。そしてそのお水を100%各家庭に配っているそうです。今現在人口がふえて、郊外では印旛沼系の水を7・3くらいに分けて飲用しているそうですが、都市部だけは100%の、16本か何本かある井戸から、干拓山から約2億年前の鉱水を引き揚げてこの中心部には提供している状況です。何といってもその町政の長たる人に、指導者に感謝しなければならないことは、こういう立派な井戸を掘ってくれたことです。

私のところはお寿司屋をやっているのですけれども、お客さんが「何でこんなにおいしいの?」と言うので説明をしたら、後になってその奥さんが遠くから、すみません、いいお茶を飲みたいので水道水を分けてくれませんかといって、わざわざ取りにきたこともございます。 四街道には、水と青い緑がたくさんありました。どんどん減っていくようですから、市当局も働きかけて守ってもらいたいと思います。

どもりだけど伝えたかった。

最後に、この語り部(ぶ)の若い人たちが、四街道で勉強して育って東京に行って、えらい出世をして、家族を持ち、子供を持って幸せなんですけれども、そこで故郷を振り返ってみる心がけが、非常に大切だと思うのです。「お父さん、お父さんが知っている限りでいいからしゃべってくれないか」と言われたもので、快く引き受けた次第ですけれども、あの水門に小石を一つ投げかけてくれた語り部(ぶ)のみなさんに非常に僕は心を動かさました。どもりではありますが、あえて勇気を奮ってお話をしたわけです。どうもありがとうございました。

大野さんの用意したメモ

大野さんが当日用意したメモ。このメモと記憶を頼りにお話しされた。

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一回目を終えて

大野進さんからは当時の学校や教育の様子、戦後の状況や、風景や環境のことなど様々なテーマが語られた。中でも学校や教育という点では、本当にそういう世界があったのかと目からウロコが落ちた。その点、風景や自然環境という点で自分の感度が鈍ってしまっていることに気づく。あまりにも常態化してしまったからだろうと深く省みる。この日は、職種や世代を越えて集まって頂いた方々と話し合うことの価値を確認するきっかけになった。

最後に、この語り簿を作成するにあたり、録音やテープ起こしなどで参加して頂いた方々に多くのご協力をいただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。ありがとうございました。

共同部長 両見英世

プロフィール

大野進(71)

昭和15年6月、千葉県四街道市生まれ。千葉大学教育学部四街道校舎附属小学校、千葉大学教育学部四街道校舎附属中学校出身。

注釈

*1 松根油

松根油はよく樹液や樹脂(松やに)あるいはそれらからの抽出物と混同されるが、このうち樹液は木部を流れる水および師部を流れる糖などを含む水溶液であり関係ない。松根油はテレビン油の一種であり、上質なテレビン油は松やにを水蒸気蒸留して得るが、松根油はマツの伐根を直接乾溜して得られるものであり、採取した松やにから得るものではない。(ウィキペディア

*2 モクゾウガニ

モクズガニの別名(ウィキペディア