【ぼ】 語り簿

記憶を頼りに語られた、生っぽく、熱を帯びた物語の記録。

第四回 かたりべ四街道
「マイルストーンを語る」

第四回のかたりべ四街道は四街道のタウン誌マイルストーンの編集長、吉植千嘉子さんをお招きして、マイルストーンを発行するに至った経緯や、タウン誌を発行に際して印象に残ったことなどを伺った。

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皆様、こんばんは。ようこそおいでくださいました。今回、かたりべ四街道の発足にあたって、共同代表の大野くんから「どうだろうおばちゃん。こういう企画は?」と声をかけていただいて、今の若者にしては珍しいなと思いながらとても感動しました。初回から応援しております。

というのも、私達いつかは消えていく者として伝えていく術がないわけですが、それを私たちがああやって、こうやってとお願いするのではなく、自ら企画をして手を挙げたことに、まずは拍手をしたいと思います。

おしゃべり好きの一主婦が千葉日報にスカウトされた。

年齢は64歳、吉植千嘉子と申します。四街道に来て30余年なんですけれども第2の故郷として大好きな街になりました。今、紹介いただいたマイルストーンなんですが、それを発行するまでの経緯をお話ししたいと思います。私、37歳の時に縁がありまして千葉日報にスカウトされました。主婦としては珍しいことだと思うんですが、いろいろな地域の会合に出ていまして、よくしゃべるおばさんだなということでスカウトされたんだと思うんです。その頃はまだ若くて今より見られたんじゃないかなと思うんですよね。それから千葉テレビの番組を担当することになりました。まず、自分が取材をして台本を書いて、インタビューをするという仕事なんですが37歳から48歳までの約10年間努めてまいりました。そこで出会った県知事の沼田さんや千葉銀行、千葉興業銀行、京葉銀行の頭取をはじめ様々な企業の経営者の方からは沢山のことを学ばせていただきました。

千葉テレビ時代の吉植さん。10年間でのべ200人の方へインタビューを行った。

佐原のタウン誌で記事を執筆。出会った方々は今でも私の財産なんです。

千葉テレビでインタビューをしていく中で、リブラン佐原という佐原のタウン誌で記事を書いてみないかと誘われたんです。「おじゃまします」というタイトルで6年間で72名の方の取材記事を書かせていただきました。ですから千葉テレビでは10年間でのべ200人の方のインタビュー番組と、リブラン佐原での72名、これは私の大きな財産になっています。

雑誌づくりの原点「リブラン佐原」。1975年に創刊。2009年の休刊に到るまで佐原の変遷を33年の間、見守り続けた。

子供に四街道ってどんなところ?そう聞かれたら答えられるだろうか?この問いがマイルストーンの始まり。

そういった勉強を通して四街道に帰ってきたときに果たして何があるんだろうと、佐原にいたときには年に2回のお祭りがあったり、日本地図をつくった伊能忠敬がいたりと誇れるものあるんですよね。一方で、私たちの子供に四街道はどんなところ?と聞かれて答えられるだろうか。そんな思いがあったんです。それで48歳で退職を言い渡されたときに四街道で始めたのがマイルストーンなんです。長い仕事のなかで得た大きな財産というのは人との出会いなんですね。だからこのマイルストーンは「人が好き、街が好き、ときめく出会いが好き。」というコンセプトで始めました。

マイルストーンは1995年10月から2001年9月まで全47冊発刊された四街道のタウン誌。表紙には四街道で暮らす市民が毎号を飾った。

沢山の方に協力していただきながら始めた雑誌作り。

そして沢山の方に協力していただかないと雑誌は出来ませんから広告を出稿していただく為に奔走したり、記事を作成していただく為に多くの方に協力していただきました。そういう仲間の方がいたから出来たんですが、来る者は拒まず、去る者は追わずでやって参りました。地域の中の歴史とか、自然とか文化とかいろんな専門家がいらっしゃいました。文化・歴史については久保木先生、自然であれば市川先生といった方々にも記事を書いていただきました。

市民の舞台でもあったマイルストーン。三人の女流エッセイストが誕生。

いろいろな市民が参加する場としてエッセイが届くようになり、マイルストーンは市民の方の舞台としても機能するようになりました。友人のエッセイスト、吉成庸子さんにも書いていただいて、何冊も本になり、出版記念パーティを開いたこともあります。南口にある北総歯科の岡田博子さんにもエッセイを書いていただいて一冊の本を出版しました。また、三才にあるセブンイレブンの花井真理子さんもエッセイを寄せていただいて、その方は出版はしていませんが、マイルストーンから三人の女流エッセイストが誕生したんです。そして、今日おいでいただいている青野さんとも一緒に仕事をさせていただいて、今は千葉日報のシルバー通信員として活躍されていますが、その青野さんもこのマイルストーンからうまれたんです。ですから年は関係なくおなかも痛めてはいませんが、いろいろな方の産みの親だと自負しております。

景気の波に押され。

マイルストーンはA5サイズで作ったのですが、これはすぐにバッグに入れられる、ポケットにも2つ折りにしたら入れられるということで作りました。こういうサイズで作ったのは皆さんに読んでほしい、いつでも手にとってほしいという想いを込めたんです。

しかし、残念ながら不景気などもありまして、1995年から約6年続けたマイルストーンを2001年9月をもって休刊とさせていただいたんです。お金のかかる事ですから、トントンでもやっていければ良かったんですが、女の甘さというのかなぁ、経営者としては上手くできませんでした。

マイルストーンを廃刊とせずに、休刊としたのは私の心の中にいつかまた出来るようにという想いだけは残したかったんですよね。皆さんの中に何が残ったかはわかりませんが、活動を通じて沢山の人と出会って、優しい気持ちをいただいた事に感謝しております。

孫に譲るような気持ちで。

今回、かたりべ四街道のみなさんから、「おばちゃん、マイルストーンを継いでいいかな?」と言われ、二つ返事でいいよとお伝えしました。今はインターネットの時代ですからインターネットを使っていくのと同時に、私の思いとしては製本されたものも残していってほしいなあと思います。お年寄りの方でもインターネットをされている方もいるかもしれませんが、製本された本は思い返したときに、すぐに手にとって見返すことが出来るのが本当にいいんですよね。

最後になりますが、これから続けようと思っている人たちを応援していきたいと思っています。読んだ方も「ここが良かったよ」とか「ここをこうするといいんじゃないかな」といったエールを送っていただきたいと思うんですね。私の大切な子供を孫達に譲るような想いですが、是非皆さんも応援していっていただけたらと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

マイルストーンを引き継いだ語り部(ぶ)の面々。

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四回目を終えて

かたりべ四街道の発足時に共同部長の大野泰祐から四街道のタウン誌を作っていた人がいる、と聞いてすぐに話しをしようということになった。そのタウン誌マイルストーンは、A5サイズの冊子32ページの中に四街道の歴史・文化、人物などを紹介するという内容で、かたりべ四街道の企画当初から考えていた「等身大の四街道」を具現化しているものだった。さらには、市民によるエッセイや、記者は市民の方が担うなど、市民の舞台としても機能していたことは、かたりべ四街道の先の方向性として1つのヒントをいただいたようだった。

2001年の休刊からちょうど10年が経ち、吉植さんにお話をしていただいたのは、マイルストーンのこれまでを語っていただきながら、マイルストーンのこれからを考えたいと思ったからである。30歳になってようやく見つめた四街道で、つなげていきたいバトンを見つけてしまった。タウン誌作りは人の手やお金がかかるもので不安定な運営になるかもしれない。けれども、知恵を沢山出しあって今の時代ならではの方法も考えながら進めていきたいと考えている。

共同部長 両見英世

マイルストーンの復刊プロジェクトは、まだまだ詳細未定ながらもゆっくりと歩み始めています。今後の活動に乞う御期待下さい。

プロフィール

吉植千嘉子(64)

37才 千葉テレビ「テレビ談話室」(後にサンデートーク)で主婦としてデビュー。約10年間を取材、台本書き、インタビューと三役を担当。この間、佐原のタウン誌「リブラン佐原」で月1回「おじゃまします」を担当。6年間で72名の方のインタビュー記事を書く。